『哲学とは何か』を読んで、歴史は繰り返すが、日本ならびに世界の未来を憂うのであれば今できることを一つ一つやっていくしかないと思った話

『哲学とは何か』を読みました!

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この本はもともと、脳神経科学で有名な青砥さんのセミナーがきっかけで、
そこで一緒に登壇されていた哲学者苫野さんが
師匠であるこの本の著者竹田さんと一緒に本の説明をYoutubeでされていたのを見て読んでみようと思いました。
 
 
 
自分でまとめていても難解なので、以下のメモを読んでもあまり意味は通じないかもしれませんが、
今この世の中では人を殺し合って領土を奪い合う1900年代の戦争とはまた違う文脈で新しい戦いが世界レベルで起こりそうで(もう水面下で起こっているかもしれません)、
哲学者は哲学者の観点から過去の悲惨な出来事を起こさないように世の中を説明しようとしているんだと思いました。
 
一番驚いたのは哲学者も哲学が必要な理由について世の中のバッドシナリオを描いていて、よりバッドシナリオがシナリオではなくリアルとして一層現実味を帯びてきたという実感が湧きました。
 
 
**MEMO**
 
【哲学と宗教の違い】

・宗教:「物語」(神話)によって「世界説明」を行う。そうすることで共同体の秩序を安定させる。

・哲学:はじめて「物語」ではなく、「概念」と「原理」による世界説明の試みとして登場。根本理念に普遍認識の可能性がある。

 
【哲学の根本理念:普遍認識】
・普遍認識とは:誰もが納得できる認識
(⇄自然世界ついての科学的な認識は客観認識)
 
個々人で何が大事かはそれぞれ違い、とくに近代社会では、考え方の多様性というものはきわめて重要なものであり保証されねばならない。
 
その上で、人間社会は常に共通了解、共通の考え方を創り出す必要性がある(これが普遍認識の考え)。
 
しかし、全体主義スターリニズムの後ろ盾に普遍認識が見なされたことから、相対主義が台頭してきた。
 
そもそも哲学の起源は多様な考えを持つ人間が集まってある問題についての共通了解を創り出そうとする、「開かれた言語ゲーム」であり、
物語を使わずに概念と原理を使い、世界を説明することが哲学であることから、
哲学が必要ないということは一つの共同体に一つの世界説明のみであり、価値の多様性はない、つまり相対主義も存在しないということとなる。
 
→よって、相対主義なき哲学は存在せず、哲学は普遍認識の可能性を持つことから、普遍認識と相対主義は相反するのではなく、普遍認識の中に相対主義が包括されているもしくは普遍認識の前提条件として相対主義があるんだと思います。
 
 
 
 【今哲学が重要とされている】
第二次世界大戦後、普遍戦争抑止によって植民地支配という体制の終焉、近代国家の経済的共存、一般大衆の福祉の向上をもたらしたが、
1980年代以降経済成長は大きく停滞し、実体経済と金融経済の規模は逆転し、富の格差は再び拡大した。
それに伴い、国家間の経済競争を激化させ、地球の資源と環境の限界という問題をも解決不可能にする。さらに最貧国の絶望を深め、テロを含む世界の暴力契機を高める。
 
→資源の絶対的希少化、生存競争の激化、核兵器技術の拡散などの要因によって、世界的な普遍戦争状態が再現されるかもしれない。
近代社会によって着手され、近代哲学者が構想した「自由の普遍的解放」(戦争と絶対的支配を終焉させて、万人の自由を確保し解放する)というプロジェクトを完全に挫折させるかもしれず、人類は、再び普遍戦争と絶対支配の体制へと逆戻りするかもしれない。
 
マルクス資本論』から、労働時間の大きな短縮は、経済ゲームの重要性を引き下げ、文化的な書ゲームの領域を大きく拡大する方向へと社会を導く。
経済ゲームが唯一の中心ゲームとなるのではなく、多様な文化ゲームが沸き立ち、各人が自分の「幸福」と「善」を求めるという多様な生き方の可能性の条件が一層高められる。あるいは経済ゲーム自体が文化ゲームの一つとなる可能性もある。
ここにわれわれは、近代哲学者たちが構想した「自由の普遍的解放」という理念の、一つの理想的範例を見出すことができる。