『無心ということ』を読んで、このままだけどこのままじゃいけない、そんなことについて考えた

『無心ということ』を読みました!
 
成長したくないからやってない、これは矛盾していないのでOKです。
成長したいからやる、これも矛盾していないのでOKです。
やっかいなのは、成長したいけどやってない、というもので、
これは言葉と行動が合っておらず、自分に嘘をついていることになります。
 
現行不一致を自分自身の中で起こし続けた結果、自分の本当の気持ちがわからなくなります。
なぜなら、私たちは今自分がやっていることが正だと思いこみたくなり、本来自分がやりたかったことが、今自分がやっていることに侵食されていくからです。
 
そして、自分に嘘をつき続けて自分の本当の気持ちがわからなくなると、気持ちに鈍感になるので相手の気持ちもわからなくなります。
 
相手の気持ちがわからなくなると、相手の気持ちを考えなくなります。
 
仕事というのは相手ありきであり、相手がいる以上相手の気持ちを考えるということは必要不可欠であり、
相手の気持ちを考えるためには相手の気持ちをわかる必要があり、
相手の気持ちをわかるためには、自分の気持ちをわかる必要があります。
 
自分の気持ちをわかるためには、自分との約束は小さくてもいいから守らないといけないし、
守れなかったときは守れなかったことをちゃんと自覚し、覚えておかないといけないと思います。
 
この本にはそんな自分の気持ちについて考えることができることが記されていました。
 
「無心」といっても何も考えないということではなく、善悪を超越したところに心を置くという意味なのかなと私は思いました。
否応なく時間は過ぎていく中で、このままでいいかと言われると、だめ。
一方で、何か今すぐできるかというとできない。
じゃあ、どうするか。
 
なるようになることもあれば、なるようにならないこともある、そんなアンコントローラブルな時間の中で、
一つ一つ、自分との約束を守っていって積み重ねていくんだと思います。

「ほかにあると言ってもほかにあると見ない。ほかにあると見ないが、そんならこのままでいいかというと、このままではいけないところがある。このままであって、またこのままではいけない、いけないと言ってまた別に何もない、しかしこれがつまりは人間です、この世界なのです。」

「有と無との間というか、有りでもない無でもないところを歩んでゆくところに、いわゆる人間的無心なりものを認めたいのである。
無心で有心の世界、有心で無心の世界、神ながらでなくてしかも神ながらの世界、自然本能を否定して、しかも自然本能の働きで働く世界ーこれが無心で超道徳の世界だ。」

 

また、「無心」というのは宗教の枢軸とのことから、宗教の特徴についても多くの記載があり、学びになることが多かったです。
 
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・受動性が宗教にはある
「塞がったところは、すでに何かものがあるので、そこでは受動が可能でないのです。何もないから入れられる。自分に何かあると思うからはいって来るものに対して抵抗する。」
「宗教の極致というものには、木や石のようになってよいというところがあるのです。」
「木や石などを木たらしめ石たらしめるところの、何か無意識的なものに突き当たるのです。そこに絶対的受動性というようなところがある。」
 
・解脱は宗教の終局の目的
私たちは対立の世界にいて、対立の世界にいるから苦痛があり、苦痛から出たいと思うのが人間で、そこから出るということはそれを棄てることになり、棄てることは全ての値打から離れるということになる。
「解脱は、単に離れてしまったということではなくて、そこには自主、自由というものがなくてはならぬ。」
「解脱するということは自由を得ようとすることに外ならなぬのです。自由を得ることは善悪などの値打のつけられる世界を超越してしまうことです。」
 
・柔軟性
道元禅師の「身心脱落、脱落身心」
「どこを押しても、柔軟で、包容的で、何でもその中に容れてゆくのである。これが身心脱落の境で、これでないと、ものが容れられない。これが宗教の本体だ。身心脱落、脱落身心でなにもないかというと、柔軟心というものがある。」
「身心脱落ということは空になることではない、何かある。あるが、そんならそれを掴もうと思うと掴めなくなってしまう。」
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